刊行記念トークイベント
「三田平凡寺という奇跡ーその磁力と素晴らしき仲間たち」で話したこと

非凡の人 三田平凡寺
身の回りの珍品を蒐集する趣味人たちを集め、開かれた文化ネットワーク「我楽他宗」を創設した大正、昭和の奇人・三田平凡寺とは何者か——。その魅力に迫ろうと、紀伊國屋書店新宿本店で2024年8月8日、同店とかもがわ出版が主催、多摩美術大学アートとデザインの人類学研究所が共催してトークイベントを開きました。パネリストは作家の荒俣宏さん、漫画批評家の夏目房之介さん、平凡寺関連資料コレクターの藤野滋さんと、立命館大学准教授のチャプコヴァー・ヘレナさん(司会)。
その一部の要旨をご紹介します。(敬称略)
 
 

禁教解けた直後に撮っていたマリアとキリストのコスプレ写真  
 
荒俣 平凡寺は、昭和の時代にその存在を知った当時、まったく埋もれた存在でした。その頃は、ローラースケートをガーガーやって家族に迷惑をかけたこと、自宅に設けた廃物堂にはドクロやエロがあふれていたこと、幼い頃の怪我で耳が聴こえなかったことぐらいしか知らなかった。その後、神保町の書店で出会った日記を読み、驚きました。爆撃機を見たことがなく、戦争しているかどうか気にしたことがないと。戦時中、こんな人物がいたとは。最近、平凡寺が動物文学会にも入っていて、トビハゼの捕まえ方を詳しく書いていることも知った。とにかく不思議な人です。
 面白い写真も撮っています。1枚は、幼い娘に羽をつけた天使の写真、もう1枚は、豊胸の女性をマリアに仕立てた写真、もう1枚は滝をバックに淡島寒月がキリストに扮した写真。当時は禁教がやっと解けたばかりだった。国境も宗教も恐ろしいものは何もないんだ、という自由な心がよく伝わってくる。

 

夏目 祖父の平凡寺は、僕が10歳の時まで存命でしたがほぼ寝たきり状態で、泉岳寺の参道を下った辺りの自宅裏の離れにいた。ドアには「居留守」と書いてあった(笑)。屋根裏の廃物堂には裸の女性が入った風呂桶の置物などもあって、そもそも怪しかった。僕は父方の祖父夏目漱石と母方の祖父平凡寺の間に生まれたので変でないわけはないが、意外にバランスが取れたのかもしれない。
 
藤野 廃物堂で撮った我楽他宗の集合写真を見てほしい。真ん中にいる髭の紳士は松平家の貴族で、彫刻家の河村目呂二、玩具蒐集の有坂与太郎、高橋久沓や妻たちも写っている。鳶の大将もいる。この時代の趣味家集団の写真で、女性たちと一緒に写っているものはほとんどなし、しかもこれほど笑っている写真は見たことがない。にこやかで飾るところがないこの団体はいったい何だろう、というのが関心を持ったきっかけだった。
 
チャプコヴァー 我楽他宗には、建築家のアントニン・レーモンドや陶芸家のグルチャラン・シングら多くの外国人もいました。彼らの手紙に登場する平凡寺はとても変な人だが、平凡寺から日本文化を学べたと言っている。平凡寺の我楽他宗が広げた国際的なネットワークに魅力を感じた。
 1920年代に日本にいた外国人にとって、我楽他宗は江戸っぽく伝統的である一方、宗教的でもあり面白い場所だったと思う。日本には他にそんな場所はなかった。ノエミ・レーモンドも我楽他宗で版画や書道、茶道を学んでいる。

 
本堂での宗会の様子。貴賤、男女の区別はない(1924年)
 

おかしな人たちが世界をつなぎ、「平和」を求めた稀有な時代だった
 
荒俣 私の考えですが、いま名前が挙がった人たちは、みんなおかしい人たちなんです(笑)。つまり、世界中のおかしい人たちがネットワークを結んだことが大変重要です。その時期が、ちょうど平凡寺が生まれた明治半ばから大正にかけて、つまり19世紀から20世紀の頭ぐらいだった。
 それまでの時期は、たとえば宗教でいえば制約なんですね。こういうドクトリンを信じなければならないとか、戒律があるとか。もう一つ重要なのは畏怖でした。西洋では悪魔が怖いとか、日本でいうと先祖代々の仏教の地獄とか女人禁制とか。要するに恐怖支配だった。ところが、その頃に不思議な人たちが出てきて、宗教の世界が全く変わるんです。恐怖支配を止め、人間の霊性をみんなで高め合おうということになる。経済もそうです。全世界で誰がどこで何をやってもいいことになった。
 何より重要なのは、戦争を止めようという意識だった。戦争が一番困ることだったんです。そして当時、宗教も経済も国家間も戦争を止めることが運動のメーンになった。しかし20世紀になると、第1次、第2次大戦になってしまった。
 いずれにしろ、宗教界でもフリーな生き方が追求され、戦争ではなくて仲良くしようと万国宗教会議が開かれるなど、「みんな仲良く」があらゆる国のテーゼになった。オリンピックはその最たる例です。それまでみんな喧嘩していたが、クーベルタンが出てきて、喧嘩の代わりにスポーツしましょう、その方がみんな幸せだからと始まった。宗教によって安息日が違うので、普通だったら一緒にできないんです。
 
 それから趣味です。「フランス風」などそれぞれの国の特徴へのこだわりが次第に壊れていく。これをやった人たちが大抵変な人たちで、ほとんど弾圧されましたが、「これだけ交通も発達したのだから世界を統一しよう」と主張した。その中のひとつが神智学です。創始者のブラヴァツキーは魔術やオカルティズムもやったが、仏教をヨーロッパに広めようともしていたので、当時、真宗も神智学を研究したんです。
 そしてすごいのは、キリストの写真を撮ったりして面白いおじさんと思っていた平凡寺のやっていることが神智学っぽいんです。世界はひとつ、男女差別なしというグループが世界中にできた。オリンピック、万博、国連ができたのと同じ流れです。この時代に、ヘンドリック・アンダーソンという彫刻家が世界をひとつにする街をつくろうと考え、あらゆる国家の出店が集まる街をアメリカにつくって国際政治をしようと呼びかけた。すると奇跡的に、宗教人から共産主義、ファシズムまで、バラバラな人たちがみんな賛同した。みんなでひとつのものができそうになったのは、この時期だけです。スポーツもアートも手を繋いでやりましょうというのが、19世紀から20世紀の間に起きた出来事でしたが、第1次大戦でそんなのは全部うそだということになってしまった。
 最近、この頃に始まった趣味の世界化がすごく面白いテーマであることがやっと分かってきた。全世界のみんながおかしかったんです。変な人たちがサーブ権を持つようなことはもう二度とありえないでしょうが、当時そういうことが起きたというのが大変重要で、平凡寺は、いい時に生まれていいヒーローになったと思う。
 

トークイベントで平凡寺を語る4人
 

平凡寺の不思議な磁力は、あの水木しげるのおかしさに重なる  
 
夏目 山口昌男さんも同様のことを指摘していました。あの時代に初めて日本が世界とつながり、世界中がつながった時代だったと。確かにあの時代は、みんなが「勘違い」していた時代ではないか。神智学の人たちは我楽他宗にオリエンタリズムなどの幻想を見たのかもしれない。ところが、我楽他宗に多くの女性は参加したが宗教性はなかった。
 また、藤野さんが指摘されたことだが、当時の写真で我楽他宗ほど笑っている写真は確かにない。ということは、平凡寺が笑えと言っているのだと思います。でも平凡寺は耳が聞こえないのにどうやって笑わせたのか、これも謎です。筆談しかコミュニケーション手段のない人が宗の大会を開く。いつもニコニコしているだけだったと参加者が書いている。それでなぜ、全国組織の中心で主導権を発揮できたのかは最大の謎です。
 外国人も日本人も勘違いさせる「呪術」を持っていたのでしょうか。この件を先ほど控室で荒俣さんと話していてひとつの結論に行き着いたのは、平凡寺は水木しげるのような人だったのではないか、ということです。水木さんの漫画も変なんですが、本人こそ変なんです(笑)。お会いすると水木さんが一番面白く、「水木教」になってしまう。同じことが平凡寺にも起きていたのではないか。これが2人の結論です。
 
荒俣 同じようなカラーの人たちが必ず呼び集まるのは面白いですね。趣味ってそういうものですが、それには中心となる吸収材が必要です。平凡寺が水木さんのような人だったから人が集まった、という夏目さんの意見に納得します。
 水木さんと話していると、まあ馬鹿なことしか言わなかった。それこそウンコの話とか。戦争の話も、自分が鳥を見上げて綺麗だなと観察していたら、周りはみんな撃たれて死んでいたとか。普通はなかなか体験しないことを昨日あったかのようにしゃべる。それは夏目さんが言ったように、ある意味で魔術なんです。そのためには自分を捨てなければいけないことがよくわかる。
 平凡寺も同じだと思う。いろんな人がいる中で人の上に立つつもりは全くなく、何の儲けも求めない。一番すごいのは絶対けなさないことです。「あそう、あんたすごいね」という一言。その姿勢は、人々の間を戦争しないように保とうという、みんなおかしかったあの時代に通じます。「勘違い」というのはいい言葉ですね。みんながそういうことを信じられた時代は素晴らしい時代だったと思う。その時代に平凡寺のような人が日本にあらわれた。

 
筆談に使った紙に埋もれる平凡寺
 

この世は遊び——。一休を仰いで枠を超えたユニバーサルな奇人
 
荒俣 もう一つ、どうしてもわからないことがある。平凡寺は結局、仲間とコミュニケーションしていないようにも感じるが、それでも分かりあえたのはなぜか。最終的に個人の力なのでしょうか。彼自身は、それを「平凡」の力だと言っている。平凡というのは一番難しいんです。我々は水木漫画でも、ネズミ男が実は一番強いことを教えられています。
 もう一つすごいのは、平凡寺は一休和尚が自分の師匠だと言っている。一休は「この世は全部遊びだ。その世で暮らすには遊びしかない」と言った。こうした姿勢や信条の影響力がもしかすると、あの時代のあちこちにあったのではないでしょうか。
 この世は遊びだということが分かっていたというのは、水木さんもそうです。戦争に行っても遊んでいたんですから。現地の人にバナナをもらって太っていた。中将が視察に来たら、一人だけ太った奴がいた。あいつはどうしたんだと調べると、水木さんは禁を破り、兵隊の枠を超えて現地の人に会いに行っていた。これは遊びだと受けとめていないとできないことです。
 
藤野 耳が聞こえない人がどうやってコミュニケーションをとったのか、いまだにわかりません。平凡寺は結婚して明るくなり、人生が変わった。最初、平凡寺は変な奴だと思っていたが、仲間の書いた平凡寺評を読むと、ひたすら優しく相手を包み込んでいる。平凡寺に相談した人は「ろくに返事もないが、筆談で終電まで話し、心晴れやかに帰った」と書いている。なんだったのでしょうか。そんな平凡寺だから女性も安心して参加できたんだと思う。そこがユニバーサルな魅力です。平凡寺はダイバーシティ、インクルージョンを早々と体現化した人間だったのではないでしょうか。
 

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